出流山満願寺は、弘法大師御作の千手観音菩薩様をご本尊とする板東十七番札所であり、真言宗智山派の寺院であります。

 当山は、今から1,200年前、天平神護元年(765年)にかの日光山を開かれた勝道上人によって開創されました。下野の国司であった高藤介という方の奥方が、子宝に恵まれなかったのを嘆かれて、当山の奥の院、「観音の霊窟」(鍾乳洞)にお籠もりをなさいました。

 日夜子授け祈願を続けられ、授かった一子が勝道上人でございます。以来、当山の奥の院にお祀りされている鍾乳石で自然にできた「十一面観音菩薩様」は子授け、安産、子育ての霊験あらたかであると多くの人の信仰を集めております。

 その後、弘仁十一年、真言宗の宗祖、弘法大師様が勝道上人の徳をしたって当山に参詣され、その折りに当山の銘木を以てご勤作になったのが、出流山のご本尊「千手観世音菩薩様」であります。

 以来、当山は鎮護国家の道場として国主の尊奉厚く、足利時代に黒印二十石、ついで徳川三代将軍家光公より朱印五十石を賜り守護使不入の地として、十万石の格式を与えられました。司法行政の執行権を有して、現在の寺務所を「出流山役所」と称して寺侍30名が常駐していたわけであります。

 山内には七つの塔頭寺院と、二つの修験行者の坊をかまえ、その筆頭寺院を千手院と称して、その威勢盛んに振るまい、東北方面から伊勢参拝の旅人は、行き帰り必ず、当山に参詣して道中安全を祈り日光への参詣者も必ず巡拝しました。また、羽黒山、月山、湯殿山の、いわゆる出羽三山詣での行者は出流山にも参拝しなければ折角の三山詣でも大願が成就しないといわれ、参詣者が続々とつめかけておりました。

 さらに、幕末維新の前年慶応三年秋、竹内 啓、会沢元輔、西山尚義等の討幕の志士が当山に参籠し殉国したことは、出流山天狗事件といい伝えられております。

 明治の改易以後の当山は幕府の禄がなくなり、廃仏毀釈の風潮に、荒廃の一途をたどりましたが、明治の末から復旧の気運となり、中興第三十七世竹村教智大僧正(真言宗智山派第六十一世化主)は、昭和四十一年、延べ520坪の信徒会館、ついで、昭和五十三年に、新本坊(延べ320坪)も建立をはたし、さらに昭和五十九年、鐘楼堂を再建されました。
 
 

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